もう二度と人を好きになってはいけないと思っていた。人を好きになる資格がない。なのに、また好きになってしまった。
人を好きになる資格がないというのは、たとえば自分には価値がないという類の卑下ではなくて、他人の人生においてあまりにも暴れまわりすぎてしまうという自覚があるからだ。これまでの恋愛ではむしろ、わざとに暴れまわって相手を試しているようなところがあったりとか、これをあげるからこれをくださいというような取引をもって暴力を安心して行使していたようなところがあったけれど、もちろんそんなことはもうしないとして、それでも暴発してしまう暴力がある。記憶である。
たとえば、好きな人とのやりとりの中で、不安が少しでも顔をのぞかせるとき、私はたちまち、ずるずると過去に引きずられていく。あのときこうだったからこうなるに違いないというところまで自覚できたらいいほうで、理路がわからず、細胞のように増幅していく不安を止められず、動かぬ身体が侵食されていくのをただただ見つめている。穏やかな日常の傍らには、常に大きな川が流れていて、ほんの拍子に砂を崩して、小川の流れに足をとられ、気づけば大きな川の中にいて、私は過去へと運ばれていく。踏みしめているはずの足裏に、地の感触がない。ここは2023年5月の北海道ではなく、いつかの東京だったりする。
好きな人に迷惑をかけてはいけないと思うと、興味を尽かせばいいのだという発想にたどり着く。もともと好きではなかったんだ。言葉を吐き出すように、出さない手紙を書いては燃やす。突拍子もなく、自己研鑽に励む。好きな人に会えなくなっても、自分のことだけは嫌いにならないように。お門違いな努力をしていると頭ではわかっている。とにかくつながりを絶たなければと、SNSをブロックしそうになる。小さなピンポン玉が頭の中を跳ね回る。私は暴力的なメンヘラだ。たまたま暴力の矛先が、徹底して内に向いているだけで。
世の中には「迷惑なんてお互い様だよ」とかいうやさしい言葉があふれているけれど、純然たるお互い様の関係なんてあるのだろうか。あるいは、「迷惑をかけあう仲になってこそ親密の証」みたいな考え方もあるけれど、それは単なる甘えではないのか。と言いつつも、(恋愛に限らず)好きな人たちに頼ってもらえるとうれしいという感覚もあるから、私には胸をひらいてわが身を預ける勇気がないだけの話かもしれないのだが。
でも、本気でぶつかれたら、どんなに満たされることだろう。かつて結婚していた人との言い合いに終止符を打たんと、白昼の道路のド真ん中に寝転び、四肢を投げ出して暴れ、叫んだときの記憶は死際に思い出すであろう恥ずかしい記憶の一つだが、次いで多幸感がなだれ込む。
自分なりの愛と誠意を込めた言葉を手渡そうとすればするほど、その衝撃と重さで人を殴ってしまう。それを世の中では暴力と呼ぶこともあるらしいが、私にとっては愛だから、傷つけるばかりで受け取ってもらえなくてさみしい。大事な存在とは、本当は、死闘を繰り返しながら関係を継いでいきたい。
狩猟に出ているとき「生きている」と感じるのは、全力でぶつからないと殺されるからだ。草食動物の鹿とて、角で突き上げられれば皮膚は切り裂かれ、内臓は破られる。だから、己の野蛮さを解放できる。もっとも、解放を”許す”ことができるのは、動物が全力で向かってきてくれるからだ。命を懸けて逃げ、ときにこちらで向かってきてくれるからだ。
人間は手加減しなくてはならないから難しい。
私は、動物が好きだ。
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(執筆開始:2023.5上旬)
※執筆時より心境や状況の変化がありましたが、当時の気持ちを結晶化させておきたくて、遡って追記・公開しました。