人の営み、ガラスは眠る

最近、馬と暮らし始めた。馬と暮らしたいと思ってから一年半越しに叶った夢で、執筆をしながら馬を眺めたいという理由だけで家を建て、馬小屋と放牧地が見える場所に大きな窓をつくった。馬と暮らしたいと思った理由や、この生活にたどり着くまでのよしなしごと、馬と暮らす素晴らしさを話せば長くなるから、この話は別の機会にしたいと思うけれど、朝目覚めてすぐに外に出て、馬小屋を開けて愛する馬・ペリートのマシュマロよりもやわらかい鼻を触ることは、早くも一日の中で最も幸せなルーティーンの一つになっている。

 馬小屋を開けた後、まずはペリートに牧草をやる。それから、ペリートの糞(ボロ)を鍬でかき集めて、スコップで掬い、牧草地の外に放る。その後に、水を捨てて入れ替えるまでが済んだら、朝のお世話がようやく終わる。大変なように聞こえるかもしれないけれど、馬の作業をしている間は何も考えずにいられるから、不思議と疲れない。時間さえあれば、大変なことは何もない。

 ここまでが通常の作業なのだけれど、糞をかき集めているとき、キラリと光るものに気づくことがある。ガラスである。私が暮らしている場所は、もともとは祖母が住んでいた場所で、馬小屋があった場所の周辺にも鳥小屋やら物置やらがあった。それらを取り壊したところに置いた馬小屋だから、ガラスの破片が出てくるだろうなと、何日にもわたって少しずつガラスを拾い上げてきれいにしたはずだ。それなのに、ペリートが暮らし始めて五日経った今日も、どうして見逃していたのだろうというほどに大きな破片が、あとから、あとから、顔を出す。ペリートを預かってくれている間に調教してくれたお馬の先生は、

人の住んでいた場所にはガラスが埋まっていることが多いんですよね。それも、拾っても、拾っても、あとから、あとから出てくるんです。

と教えてくれた。それを聞いた私は、まるで人の営みのようだと感じる。

 生きていると、傷つくことばかりだ。というよりも、生きることは傷つくことだともいえるかもしれない。生きていれば、当たり前に傷つくのだから、いちいち足を止めてもいられない。若いときに「三十代になると感受性が鈍る」と聞いて怯えたものだけれど、感受性が鈍るのではなくて、やり過ごし方を覚えて狡猾になっただけだろうと今は思う。しかし、そうやって見過ごしてきた傷がふとした瞬間にチクリという痛みとともに思い出されることがある。あるいは、ザックリと深く刺さった激痛として。そういうとき、私たちはきまってこんな風に戸惑う。何年も経っているのにどうして、あんなに小さなことだと思っていたのに、と。けれども、何年も経っていようが、小さなものであろうが、土に埋まったガラスは風化せず、海の波に削られたそれのようには丸くならない。鋭利な輪郭を携えたまま、土の中で日の目を見るのを待っている。

いつ間違って触れて痛みを感じるのかわからないものを自分の中に抱えて生きるのはこわいし、忘れたと思っていたような出来事に身体を覆い尽くされるのは迷惑だ。傷つくのは仕方ないとしても、ガラスの破片は自分の身体の外にあってほしいものだ。そう考えるのは、とても、自然なことのように思う。

それでも。それでも、馬小屋を開けて糞をかき集めるとき、朝日を受けて煌めくそれを見つけたとき、私はどういうわけかうれしい気持ちになってしまう。触れると痛いものなのに、ペリートを傷つけるかもしれない厄介ものなのに。まるで広大な砂浜で小さな砂金を見つけたときのような感動がある。理路を通そうと思えば、おかしなことだ。しかし、美しいとうれしいの二点で、恐怖も面倒もはねつける。しかも、それが人の、あるいは自分の生きた痕跡だとしたら、愛おしいとさえ思える。

そういうわけで、私にとって朝起きて一番にやるルーティーンは幸せな時間だ。馬小屋を開けて、ペリートの鼻を触れるし、光るカケラを拾い集める。

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