昨日、新しい家に入居してから毎食きちんと自炊している。きちんと自炊といっても、チルドの餃子を焼くだけ、味付きの肉と野菜を炒めるだけ、ご飯を炊くだけという、いわゆる内食をしているだけなのだが、学生時代から十年近く一人暮らしを続けても台所に向き合う習慣がなく、飲むついでにご飯を食べるか、コンビニおよびスーパーという名の巨大冷蔵庫に通っていた私が、食事のたびに台所に立っていること自体、革命的な出来事なのだ。
そもそも、私が料理に苦手意識を持っていたのは、料理は上手につくらなければいけないとか、盛り付けをきれいにしなければいけないとか、(これは本当に恥ずかしいと思いながら長く脱せずにいる思い込みなのだが)女たるもの好きな男の胃袋をつかんでものにしなければいけないという観念にとらわれていたためである。観念にとらわれているとわかっている人間に「そんなのは思い込みだよ」と言ったところで、そんなことはわかっているのだから、そこから抜け出す言葉にはならない。しかも実際に、社会人になってから好きになった男たちの多くは、料理上手な女の手中に吸い込まれていった。結局のところ、胃なのだ。捻じれた嫉妬だが、料理上手な女になりたいし、それができないなら、私だって料理上手な女と結婚する男になりたい。料理上手な人間やロボットと住めばと言われそうだが、私が料理ができない女である事実を変えずして、この観念の強迫性からは逃れられないのだ。少なくとも、一人暮らしを再開するまではそう思っていた。
しかし、今回の一人暮らしで「あること」をした瞬間、料理をするのがまったく苦ではなくなった。
私は、自分がつくる食事を「エサ」と呼ぶことにしたのだ。これが効果てきめんだった。
私はちいときいという猫2匹と、ペリートという馬1頭の保護者で、彼らにごはんをあげる機会がある。今は「ごはん」と言ったが、人間の食べる食事のようなものではなく、猫らは固形のドライキャットフードを食べているし、ペリートは牧草とか濃厚飼料と呼ばれる砂糖でコーティングされた甘い麦を食べている。愛する伴侶たちの食事を「ごはん」と呼ぶか、「エサ」と呼ぶかには、その人の思想が宿っているが、人間のごはんを「ごはん」と呼ぶならば、それに対比させるかたちで「エサ」と呼ぶことも不自然ではないような種類のものだ。彼らは盛り付けを気にしないし、ペリートなんて土の上に置いた牧草や、その辺に生えている青草もバリバリ食べている。写真に映えるかどうかなんて気にしていた私が恥ずかしい。
しかし、私とて食事を選り好みしないところと、一心不乱に食べるところは、彼らに負けじと劣らない。(我が家の猫や馬のほうがよほどグルメなように思う)出されたものは何でも食べるし、だいたいのものをうまいと感じるし、身体に不調が出ない程度のバランスがとれた食事であれば、なんでもいいのである。なんだ、私の手料理は彼らの食事と同じではないか。出されたものを、ただただ無心で食べればいいのだ。ほかにつくる人がいないから、たまたま私が料理をつくっているが、猫や馬が死なないためのフードや牧草を供するように、私にも私が死なないためのエサを用意するつもりでつくればいい。料理をつくるときは、私は私の「保護者」をやればいいだけなのだ。
そう思った瞬間に、料理への抵抗感や嫌悪感、憎しみのようなものが霧となって消えた。私はこう見えて、お世話好きなので、たとえ自分のためにであっても「世話」だと思うと、心がウキウキしてくる。「自分にやさしく」とか「ご自愛」とか「セルフケア」みたいなかっこよかったり、感情を介したりした言葉ではだめなのだ。「世話」という言葉の、粛々とした、仕事っぽい、無味乾燥な雰囲気が好ましい。
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私は、言葉やイメージの作用を受けやすい。
だから、人と人との関係を「友達」とか「恋人」とか「家族」とか名指されるものが苦手だし、苦手かつ愚かゆえに執着してきてしまった。けれども、そういう言葉の作用を受けにくい人間以外の世界に体ごと向き直ってみると、絡まった糸がおのずから解けていくように思う。
自分のことを人だと思わないようにしたい。
というか、生まれてからずっと人を上手にやれている気がしない。
今日もうまく擬態できただろうか。
昨日から始まった新しい家での生活のテーマは、脱・文明です。
▲味付きジンギスカンとしめじ、レタスを炒めた、私のエサ。